2016年12月
「主張性と他者配慮」
ドイツと日本の子どもたちのQOL(quality of life)を比較すると、日本のこどもたちの自尊感情の低さが目立ちます。それと密接に関連していると考えられるのは、集団の中で自己主張をしない、させない日本の社会と学校教育です。どのようにしたら、これは変えていけるのでしょうか。
この秋、学会に参加する機会に二度恵まれた。偶然にも、それぞれのテーマに大きな関連性があった。そのキーワードとなるのが、主張性と他者配慮ということである。今回の教室だよりでは、これについて述べてみたい。
10月に高松で行われた日本の教育心理学会では、「子どものQOLと主張性-日本とドイツの比較から」というシンポジウムで、ドイツの子どもたちについての話題提供者として参加する機会が与えられた。各種の国際調査では、日本の子どもたちのQOL(quality of life 幸福感・自己肯定感・自尊感情など)が低いことが指摘されている。また、学年が上がるにつれてQOL得点が下がっていくこと,特に自尊感情得点が下がっていくことも示されている。そこで、昨年、その背景要因と考えられる主張性に着目して、ドイツと日本の子どもたちの比較調査が行われ、私もその橋渡しのお手伝いをした。その結果、すべての面において、ドイツの子どもたちの得点が高く、QOLも高かった。そればかりでなく、自己主張が子どものQOLに寄与し,特に日本では,自尊感情との関連の大きいことが示唆された。このシンポジウムでは、その調査結果に基づいて討議が進められたが、私は、公文の教室から見た、ドイツの子どもたちの自己主張のあり方と、その背景にある「民主主義を育てる」学校教育について述べた。
さて、この学会に先立つ9月には、ドイツで行われた国際内観学会に出席した。内観は、今から50年ほど前に、浄土真宗の「身調べ」という修行法を、吉本伊信という人が、宗教色を抜き、万人向けに確立した心理療法である。それ以来、日本の生んだ心理療法として、国際的な評価も得て、ドイツで、また世界で静かに広がっている。内観では、1週間、毎日、朝から晩まで、屏風で仕切った座布団一枚が入る空間に坐って、年代順に自分の人生を回想していく。その際、母から始まって、父、配偶者、他の家族など自分の周りの人々に対し、次の三つの問いに具体的に答える。その人に①「していただいたこと」②「して返したこと」③「迷惑をかけたこと」。そして、2時間おきにやってくる面接者に、内観者は、その相手の目線に映った自分と相手との間の出来事を報告する。この経験を通して、自分中心の見方を訂正し、他者が自分に対して行ってくれたことに気づき、現在抱えている問題を自らの手で解決する方向に向かう。私もしばらく前に実践してみて、納得できる部分も多かった。
ところが、このドイツの内観学会では、ドイツや西欧の発表者は、自己から他者へ向かうというパラダイムの転換について、興味深いプレゼンを行っていたのだが、日本からやってきた発表者たちの体験報告には、ひどく驚かされた。いわく、「中学生のころは級友からイジメを受けて不登校だったのが、保健室の先生に助けられた」「過労死寸前まで働かされていたけれど、内観で立ち直り、今、そういう人たちのためのコンサルタントをやっている」「親や祖父の希望に沿って弁護士になろうとしていたが、別の道を進むことになって、彼らを悲しませた。最終的には納得してもらったが」「義父母の介護に明け暮れたあと、夫に『あなたはそんなことにならないでね』と言ったら、偶然か、夫はぽっくり逝ってしまった。夫に申し訳ないことを言ってしまった気がする」「今回の学会に参加することで、夫のために食事を作ることができず、夫に迷惑をかけている」などなど。
聞いているうちに、驚きを通り越して、怒りさえ覚えた。日本人の典型的な外交辞令としても、あまりに自己卑下が過ぎる。それに、いじめられたら、いじめられっぱなしでなく、まず周囲の大人に被害を訴えて、いじめをなくすよう主張しなければいけない。過労死寸前まで働かされたら、その経験を生かして、そういう人たちのコンサルタントをしている場合ではなくて、その仕組みを変えるよう、会社や社会に働きかけなくてはいけない。ところが、発表者たちは、内観によって、「自分の見方さえ変えれば世界が変わる」とばかり、現状をみごと肯定的に受け入れているのだ。これは、今の日本、いじめや長時間労働がはびこり、貧困格差が広がって、たくさんの人間がうつ状態になっている国で、実に危険なことではないか。内観は、さまざまな不正や差別などによって苦しんでいる人間たちに、今ある苦しみは、他人のせいではないと自己責任を強要する機能を持っているのではないか。なにしろ、学会で会った日本人たちは、それだけひどい目に遭っているにもかかわらず、皆嬉々としていて、内観を至上のものと捉えているように見えるのだ。ほとんどマインドコントロールでは、と思ったくらいである。
学会から帰って、これは、内観が悪用されているに違いないと思ったその危惧が拭い去れず、ネットでいろいろ検索してみた。すると案の定、出るわ出るわ。最近話題によくのぼる右翼の総本山、日本会議では、青年部の新入会員には内観が義務づけられているという。この系列の出版社から出ている雑誌には、内観についての話がたくさん載っていたほか、その右翼的な活動の推進者とも深い関係があった。また、とあるブラック企業として有名なホテルチェーンでは、従業員に内観を義務付けているばかりか、さまざまな不法行為を行なって有罪が確定した社長が内観礼賛の著書まで出している。今の時代、滅私奉公を要求する企業や、表向きは女性の活躍というようなスローガンを掲げているものの、実際には男女平等を否定して女性の家庭役割を固定化しようとしている保守系政治家たちの思惑にぴったり合っているのが、内観というわけだ。
その学会では、ウィーンの内観センターの所長が興味深いたとえで話していた。内観は、まるでオーケストラの一員として音楽を奏でていた人間が、初めて音楽全体を聴けるようになることだ、と。それまでは、自分の演奏する楽器の音しか聞こえていなかったのが、内観をすることによって、初めて他の人の出す音を聴き、その全体が見えてくることだという。私はそれを聞いてつくづく、これは日本と西欧では、内観以前の、自分の立ち位置が真逆にあるのだと思った。そもそも日本人は、オーケストラの中で、他の人が奏でる音ばかり聞いて、自分は一生懸命それに合わせようとする、つまり、自分の出す音をまったく聴いていない。ただでさえ、そういう状態であるのに、内観を行うと、さらに自罰的になる危険をはらんでいる。いや、それまで健全な主張性を身につけて育っていれば、たしかに内観の期する効果は得られるかもしれないが、冒頭に書いたように、日本の子どもたち、ひいては大人たちの主張性が弱い状況では、内観は現状肯定を補強する機能しか果たせない。つまり、内観と一口にいっても、日本人と西欧の人たちとでは、まったく同床異夢なのだ。日本では、内観が成立した時代から、社会が著しく変容して、内観の内容も変質したと見える。その意味で、日本以外の、主張性が先立つ国々では、むしろ逆に内観本来の、他者に向かう健全なまなざしを維持していると言えるだろう。
ところで、QOL調査における自己主張性は、決してやみくもに自分の意見を主張するという意味ではない。あくまでも、他者と上手に共存しながら,個人の思考と感情を明確に表現できる能力のことである。すでに、子どもたちを対象とした実践研究では、自己主張と他者配慮の間に相関関係があることが判明しており、両者の高い場合がもっとも適応的であると判断される。つまり、自己主張できるこどもは、仲間ともうまく付き合っていけるのだ。これがQOLのもとになっているのだろう。日ごろから自己主張を育てる教育を受けているドイツの子どもたちに、内観はいざ知らず(実際、ドイツの学校に内観を導入した例もあると聞いている)、日本の子どもたちは、内観以前に、同調圧力に屈せず、まず自分の意見を表明する練習から始めなければならない。シンポジウムの最後に、日本の現状で何かできることはという司会者からの問いかけに対して、私は、子どもたちができるだけ自己決定できる場を周囲の大人が作り出すことだと答えた。
子どもたちに自分で決めさせる経験を積ませよう。そしてそれを尊重しよう。「現状は自分の力で変えられる」という自信につながれば、いじめやブラック企業に出遭ったとき、なんらかの活路を開けるようになるだろう。毎度言っていることだけれど、公文もその一翼を担っている。「出口のべんきょう」での現状分析、宿題決定、問題解決、これらの経験を通して、日本の子どもたちもドイツの子どもたちも、自分の奏でる音に真剣に耳を傾けて、オーケストラの一員として、美しい音楽を奏でることができるようになれば、こんなに嬉しいことはない。
2016年9月
「民主主義の練習」
ドイツの人々を見ていると、生活が政治に一直線につながっていることが感じられる。日本のこどもたちも、日常の場で、民主主義の練習をしてほしい。そう、公文でもちゃんとやっているのです!
7月に行われた参議院議員選挙では、選挙権年齢が引き下げられ、18歳、19歳の若者たちが初めて一票を投じた。いや、本当に投じたかというと、実際には、彼らの投票率は極めて低く、45,45%という数字。もっとも全体の投票率ですら、54,70%なのだから、いちがいに彼らのみ、政治意識が低いとも言えない。そして、18歳・19歳の半数以上は、与党に投票したという。この傾向は、かつて学生運動最後の日々を実際に経験して、その時代の波を大きくかぶり、その後の人生に少なからぬ影響を受けた私には衝撃だった。若者が既存の社会に対して、異議申し立てをしないなんて!報道によれば、なぜ若者たちが、与党に入れたかというと、自分では決められないので、とりあえず親に聞いて、親と同じ政党を選んだのだろうという。これまた、昔親に反抗ばかりしていた私には、とうてい信じられない理由である。自分の意見が持てないから、投票先も親に決めてもらうなんて!
ところで、その18歳と19歳の若者たちの投票率を個別に見ていくと、18歳は、51.17%、19歳は39,66%と違いがあり、これを総務省は、高校で主権者教育を受ける機会があった18歳と、大学生・社会人が多い19歳の差であると説明している。つまり、18歳選挙権が導入されることになって、急きょ実施された主権者教育が功を奏したと言いたいわけである。たしかに数字のうえでは、そのような解釈も成り立つ。しかし、そもそも同じ年齢の半数の人間しか、選挙に行っておらず、自分で判断できないから、親と同じ政党を選んだという状況で、この主権者教育が果たして成功したと言えるだろうか。
これに関して、先日、興味深いことを体験した。この夏休み、公文の事務局でセミナーがあったので参加したのだが、そのときのことである。ちなみに、私以外はみんなドイツ人の公文式教室指導者だった。まあ、出るわ、出るわ、意見がすごい!みんなバンバン手をあげて、事務局のやり方やプレゼン内容を批判している。ある指導者いわく、「私は今日、自分の夏休みを一日犠牲にしてここにやってきた。それなのに、今、ぜんぜん主題とは関係ない内容をやっている。これは許せない。私は今、非常に腹を立てている。」こんなこと、日本の公文の事務局で、くもんの先生が言うだろうか。
権威を怖れない。自分の意見をはっきり言う。不明なことは、とことん質問する。すばらしいなあ。これぞドイツの文化!こういう「モノを言う」人間をつくりだす教育。私は、セミナーの内容そっちのけで、この意見の応酬をほれぼれ聞いていた。休憩時間。とあるトルコ人の指導者と話した。彼女、「こんなこと言ったら、もう、今、私たちの国では死刑よ」そうだ。先日のクーデターの結果、エルドアンが死刑を復活させると言っていたのだ。彼女に、私は言った。「日本もね、もうすぐそうなるから。でも、トルコより悪いと思う。だって、日本では、たくさんの人がそれに気がついていなくて、しかも、そんなことを考えようともしないんだもの。」そのあと、二人で、あ~、ドイツのこの「自由な話し合い」が社会の基本って、なんてすばらしいんでしょうと盛り上がった。
いつか、福島事故の取材を続けているジャーナリストのおしどりマコさんの講演を聞いたとき、彼女がその中で言っていた。私たちの日常行動こそが、投票行動であり、政治行動なのだと。ドイツ人は、このようにして、日常の場で、常に討論しながら、物事を進めていく、しんどくて手間もかかるけれど、それがまさに政治行動なのだとつくづく思った。ドイツの連邦議会も、公文のセミナーも、ひとつながりに続いている。政治が身近にあるドイツを、その日まざまざと見た思いだった。
ひるがえって、日本はどうか。いつも私は機会があるごとに、日本の人々に紹介する言葉がある。私のドイツの大学での指導教授、ミッヒェル先生が、ある日、ゼミの時に述べた言葉である。
「泳ぎは、いくら理論を習っても、それですぐに泳げるわけではない。こどもたちは、どうしても実際に自分で泳いで練習してみなければ、泳げるようにはならない。
民主主義もそれと同じだ。こどものころから、自分で決めて行動する練習をしなければ、民主主義社会は実現できない」
考えてみれば、あたりまえのことなのに、なぜそれに私たちは気が付かないのだろうか。三権分立、国会の仕組み、選挙の意義、そして、たとえば普通選挙が実施されるまでの歴史的歩み、そういうことをいくら知識として習っても、それだけで、民主主義は実現できない。高校での主権者教育の前に、すでに小学校・中学校の頃から、自分の意見を言う、自分で決める、意見が衝突するときは、人と話し合って決める、こういうことを実際に自分で経験して、失敗を繰り返しながらも、その中から学びとっていかなければ、政治の意味も、選挙の大切さも本当には理解できない。そして、これは、「主権者教育」などという特別な学習の枠組みでなくて、教科を問わず、いや、むしろ全教科を通して普段から練習していくべきことだろう。もちろん、公文でもそれをやっている。私がいつも言う「出口のべんきょう」、教室での学習が終わって出てくるこどもたちとの対話の場がそれである。「今日の学習、どうだった?」という私の質問に、生徒が答え、その日の学習内容をふまえて、宿題を自分で決める練習である。私が違う意見を持っていたら、話し合いで、何を宿題にするか、一緒に決める。日常行動が政治行動、このこどもたちには将来、しっかりと自分の一票を行使できるようになってもらいたいと思う。
ところで、つい最近、こういう話を日本から来た学生数人にする機会があった。そのとき、彼らは異口同音に、SNSの中では、とても自分の意見なんか出せない、いつもみんなに合わせてる、と言った。また、一人の女子学生は、私はいつもお母さんの言うことを聞いている、私の自由はないの、とさえ言っていた。なんという閉塞感の中に生きているのだろうと、世代も生活の場も違う私は思った。でも、もし、私が日本にいて、彼らと同じ時代を生きていたら、その殻を破る勇気はあるだろうか。そういう勇気はどこから湧いてくるのだろうと思っていたら、その中の一人が、「今日はお話を聞いて、胸がすっとした。今すぐには、たぶん自分の生き方は変えられないと思うけど、こういうことを聞く機会があってよかった」と言ってくれた。そうか。やはり、周囲の大人が、自分でも実践して、こどもたちにその姿を見せつつ、理想のあり方を言い続けるのがとても大切なのだなと思った次第。思えば、運動が人一倍苦手で、ぜんぜん泳げなかった私も、プールや海でしこたま水を飲んで、いろいろな大人の手引きで、なんとか泳げるようになった。特に思い出されるのは、伊豆の海で、仰向けに寝ると浮くということを教えてくれた、友人のお父さんである。手を大の字に広げて思い切って、水の上に寝ると、必ず浮くよ、と言われて、本当に怖かったけれど、横でぷかぷか浮いているお父さんの真似をしてみたら、みごとに浮いた。そう、こどもたちの民主主義の練習を、今度は私がお手本を見せながら、手伝っていこうと思っている。
2016年6月
「やってみよう、
やってみなければ分らない」
このホームページを自分で立ち上げた話を書きました。まさに、これって、公文に来ているこどもたちの追体験でした。
このフレーズ、実は公文ギョーカイでは誰でも知っている、公文式学習創始者、公文公の言葉である。たまには、公文の話を書こう。最近、これって本当にそうだなあと思えることを経験した。それは、わが教室のホームページ制作、である。インターネットが世に現れて、そしてそれがコミュニケーションの手段として普通に使われるようになって久しい。調べてみると、ネットが一般に使用されるようになったのは、2000年代前半で、ネット・コミュニケーションが活発化するのは2000年代後半だそうだ。時代を全部伴走して生きてきたのに、いまやネットのなかった時代というのが思い出せないくらい、日常の中にこれが氾濫している。
そのネットがぼちぼち出始めてきた頃から、つまり10数年前から、教室のホームページを作らなければならないなあとは思っていた。当時、IT技術に精通していた教室のOBが、「ボクが作ってあげるよ、先生」と親切にも基本のウェブ・デザインを作り上げてくれて、あとは、「じゃあ、いろいろテキスト入れるから、先生はそれを書いて送って」ということになった。ところが、日ごろの忙しさに取り紛れて、そのあと、全然フォローしなかった。結局、彼がイギリスの大学に進学して、連絡も途絶え、それっきりになってしまった。今思えば、せっかく作ってくれたものを無駄にしたばかりか、彼に対してもなんと悪いことをしたのかと思う。そのころは、ホームページの制作というのが、ものすごい金額で発注する案件であるということすら知らなかったのだ。まさに、ネコに小判である。ただ、このホームページ制作は、それから事あるごとに、人に言われたり、自分でもその必要性を感じたりして、長い間の「宿題」になった。やらなきゃ、やらなきゃ、いや、誰かに発注しなくちゃとは思いつつ、でも、いやなことは全部後回し。公文に来ているこどもたちの気持ちが良く分る(笑)。
そのうち、ウェブサイトが簡単に作れるソフトが開発されたという情報を耳にした。また、私が活動しているNPOでも、メンバーの一人が、わりとあっという間にそのサイトを立ち上げたのを目の当たりにして、これは自分でも出来るのかもしれないと思い始めた。その矢先、とある大変お世話になった人に、最後に背中を押されて、よ~し、この春休みに自分でやってみようと重い腰を上げた。
Jimdoっていうサイトで、なんかホームページが簡単に作れるらしいよ。正真正銘、この課題を始めるに当たって持っていた情報はこれだけ。しかもネットでJimdoを検索するのに、間違ったスペルで入れて、直されたくらいだった。もちろん、やりたくない宿題なので、春休み初日からは始めない。いろいろ理由をつけて、この仕事は後回しにする。でも、その他の優先事項が全部片付いて、ついにホームページ制作にとりかかるべき時が来た。Jimdoのサイトをあけて、とりあえず契約を結ぶ。あまりよく理解できないことが書いてあったが、NPOで、別のメンバーがやっていたホームページ制作時のキーワードを思い出して、それを自分のケースに当てはめ、なんとかクリアする。そして、いよいよ、いくつかあるホームページのモデルから自分用のを選択し、作業を開始、しようと思った… が、そこにちりばめられているのが、本当に火星の言葉のようで、まったく意味不明である。こりゃ、もう絶対ダメ、私にはムリ、そのお世話になった人を拝み倒して、なんとかお願いしよう、と思ってその晩はふて寝した。
次の日。もう投げ出そうと思ったのだが、一歩踏みとどまり、とりあえずもう一度、制作中のページをあけてみた。自分の意志とは無関係に、コラムの作り方と動かし方、削除の仕方を、マウスを転がしているうちに、突然会得した。いわゆるアハ体験である。これだけでまず、大きな山は越えた感があった。そこからは試行錯誤である。コラム内の編集は、比較的Facebookの書き込みに通ずるものがある。写真のアップの仕方、リンクの張り方、一つずつ、知識と技術がついてきている実感が生まれた。本当に最初の一歩だが、その日はいくつかの制作基礎が身についたことを確信した。こういうことって、本当に嬉しいものである。なにしろ、昨日はもうすべて諦めて人に頼ってしまおうと思っていたのが、ちゃんと自分ひとりで出来るようになったのだから。
急にやる気が出てきて、それからは、一日何時間もパソコン画面に向かうようになった。リンクのボタンをつける、PDFファイルをアップする、編集ナビケーションのカーソルの動かし方を理解する、コラム内のフォントを選択する、管理画面を選択しながら使いこなす、などなど。ゼロだった知識が少しずつ積み上がっていくのが、自分でも痛快で楽しい。少し様子が分ってきたので、何かネタはないかと、他の公文式教室のホームページを検索してのぞいてみた。多少は参考になったものの、海外の日本人教室の事例がまったく見つからず、自分の教室にはあまり当てはまらない。いや、逆に、こういう日本の受験対策や、公文の「素直な」広告っぽいのじゃなくて、海外に展開している公文を自分の視点から捉えて、コンテンツを独自に作るしかないと悟った。
もともとプレゼンの内容を考えたり、文章を練ったりするのは好きなほうなので、いろいろなアイディアが浮かぶ。あれ、利用できないかな、これは実際にアップしてみるとちょっと見づらいな、など。もちろん、すべて試行錯誤だから、1日かかってやったことが気に入らなくて、次の日に全部やり直すことなど、何度もあった。それでも、自分の過去の知識や技術を総動員して、このサイト制作に注ぎ込んでいると、それ同士の新しいつながりが生まれる。ミッシングリングが埋まって、次のステップに移るのが容易になる。その新しい学びの過程が、実に心地よい。
そして、これはどうしても分らないと、行き詰れば、初日のあのゼロ状態を意識して、もう一度振り返る。あれから思えば、自分はここまで知識と技術がついたのだ、きっとこの問題だって克服できる、よし、ここはもうちょっと我慢してやってみようと自己暗示をかける。また、そういう時は、数日この問題を寝かせておくに限るということも学んだ。気分を変えたり、時間が経ったりすると、不思議にも解決の道筋が見えてくるものだ。こうしてこの問題もクリアすれば、それはまた自分の知識となり、自信につながる。なんと自分は、さまざまなことが出来るようになったことよと嬉しくなる。
そうしてまさに冒頭の言葉を思い出したのだ。「やってみよう、やってみなければ分らない」。本当にそうだ。実は私のやっていたことは、公文の生徒たちのやっていることの追体験だったのだ。自分で実際にやってみることによって、アタマの学びがカラダの学びとなり、思いもかけないポジティヴな結果が出せる。この達成感、自己肯定感こそ、次の学びへの意欲となる。
ところで、このことについて、先日教室でとても嬉しいことがあった。Noraが教室で初めてルートを勉強する日のこと。Noraは6年生、当然9年生で習うルートは未習である。うちの教室では通常、初出箇所を学習するときは、緑の札を入れている。教室内の助手が、やり方の間違いを未然に防ぐために、その生徒のチェックを念入りにしているからだ。しかし、教室に入るとき、Noraは、それを拒否した。この札、要らない、できるだけ自分ひとりで解いてみたいから。そしてその日、例題を見て、ほとんど全部間違えず、みごとに自力で解いて、外に出てきたのである。
自分自身の手で、試行錯誤しながら、学習し、自分の使いこなせる知識・技術として蓄えていくこと、それによって、さらに自分自身の幅が広がっていくこと、こんなに学びというのは楽しいものなのだ。ホームページ制作を通して、こういうゼロから学ぶということを、この年になっても経験できたのは、とても嬉しいことだった。それでも、出来れば、こういう喜びは、できるだけ若いうちに体験させたい。そのことによって、自分の人生が変わっていくことも大いにあると思えるからだ。やはり最後に思ってしまうのは、こういう「学ぶ喜び」を、出来るだけたくさんのこどもに届けたいということである。そしてまた、「学ぶ喜び」を得て大人になった生徒たちには、その喜びを享受できないこどもたちのために働いてほしい。
この間、教室で「きょうは公文やりたくな~い!」とストライキを起こしていたおチビのFelixに、地球上には、学校や公文で勉強できるこどもたちだけではなく、学校にも行けず、小さいころから働かなければならないこどもたちがたくさんいると話をした。私も驚いたのだが、Felixは、急に態度を変えた。その日の課題をやったのみならず、ボクが大きくなったら、サッカー選手になってたくさんお金をもうけて、その勉強できないこどもたちを助けるよ、と言ってくれた。これもいいなあ。
さて、ホームページ制作の最後に、最大の関門が待ち構えていた。サイトにKUMONのロゴを入れるためには、とある数式で書かれたKUMON-Blueという青に、コラムの色を変えなければならない。その難しかったこと!どちらかというと偶然の産物でこれはクリアした。あとはドメイン取得、これも火星の言葉だらけだったが、おっかなびっくりネットで登録できた。まだまだ工事中のところも多いが、とりあえず公開。皆様に見ていただけると嬉しい。お友達にもどうかご紹介ください!
http://www.kumon-oberkassel-meerbusch.de/
2016年3月
「フクシマの後で」
福島原発事故のあと、芸術は、福島についてどのように表現できるのか。
ハンブルクで見た福島を題材としたオペラから考えます。
あの大地震から5年たった。あの日朝、私はたまたま年若い友人のお葬式に参列していた。春まだ浅き森の中での樹木葬、失われた命とご家族の悲痛を思い、ただでさえ辛かった私の耳に、その後、教室へ向かう途上のカーラジオが、日本からの信じられないニュースを伝えた。なんという日、なんと絶望的な出来事なのだろう。それから続く日々は、ドイツにいてもひたすら暗く、自分の存在にずっしりと重くのしかかるような時間だった。地震や津波もさることながら、原発による過酷事故には、こういうことがいったん起きれば、これからの日本、ひいては地球全体の生態系がいかに取り返しのつかない事態になるかをまざまざと見せつけられ、かつそれらによって、犠牲となり、差別される人々が生まれるシステムへの憤りをかきたてられた。その恐怖と怒りは今も続いている。いや、日本では、時間の経過とともに、故意であれ、無意識であれ、「フクシマ」が人々の目から覆い隠されていることを思えば、こういう切迫した危機感はドイツにいてこそ感じられるのかもしれない。
先日、友人から「ハンブルクで『フクシマ』をテーマとしたオペラが上演される」と聞いて、さっそくネットで調べ、見に行った。実は、それを見る前に、私の心の中にひそかな問題意識があった。芸術は、フクシマとどのように対峙するのか、ということを最近マジメに考えている。いつか、ご縁があって、坂本龍一氏にインタヴューした時、彼は「フクシマの後でフクシマを語らないのは野蛮だ」と述べていた。もちろんこれは、ドイツの哲学者アドルノの有名な言葉、「アウシュヴィッツの後で詩を書くのは野蛮だ」からのもじりである。フクシマの後で芸術家の沈黙は許されないとして、では、どのような作品を生み出せるのか、あるいは生み出すべきか。
少し前、個人的にフクシマをテーマとした写真展の企画に付き合うことがあり、それらの作品をネット上だが見る機会を得た。私には強烈な違和感があった。この作品は、フクシマがなければもちろん成立せず、そしてそれを批判する立場であることは間違いないが、その根底にフクシマを自分の芸術表現に利用しているさもしさが見え隠れする。フクシマの廃墟のあとの残酷なまでの美しさは、まさに自分の芸術的野心の表現にしかすぎない。それでよいのか。芸術は、そのようなものとして許されるのか。
さて、このオペラ、『Stilles Meer』(『海、しずかな海』)、平田オリザの日本語脚本をドイツ語に翻訳し、細川俊夫が作曲した。演出も平田が担当、指揮はケント・ナガノで、ハンブルク州立歌劇団初演である。少し内容を紹介しよう。日本人と結婚し、バレエ教師として福島で暮らしていたドイツ人女性クラウディアは、2011年3月11日の津波によって最愛の夫と子を失う。しかし、原発事故のため、彼らを探しにいくことができない。夫の姉ハルコは彼女にドイツへ帰国するよう勧め、またクラウディアの元恋人シュテファンも彼女を祖国に連れて帰ろうとするが、それでも彼女は被災地に留まる。
正直言って、無調性の現代音楽はあまり好きではない。しかも、オペラという長丁場、本当に最後まで聴いていられるのか、若干不安だった。でも、音楽は十分感情に訴えるものがあったし、まだ観客が席についていないうちからのさりげない始まりや最後の祈り、風刺としてのロボットの登場などの演出、海と不気味な燃料棒を思わせる舞台芸術がまたすばらしかった。とりわけ、クラウディアの嘆きに、同じく子どもを亡くした母というテーマである、能の「隅田川」を重ねて表現する作りが、時空を超えた感動を呼び起こした。自分の問題意識から見れば、この作品は一つの成功例なのではないかと思えた。
そして上演後、脚本・演出を担当した平田オリザを囲んで「福島は何を変えたのか」というパネルディスカッションがあった。実は私は、プログラムに載っていた彼の文章が、ドイツで誤解を与えるものではないかと感じていた。つまり、「福島の放射能被害は時間の経過や除染などでかなりの部分解消したにもかかわらず、農作物は売れないし、いわれのない差別を受けている。小児甲状腺ガンも多発しているが、実際の原因はいまだ不明」といった調子で、とりようによっては、「福島安全宣言」のようにも響く。ご本人は、「原発には絶対反対です。私にできることは、福島の人たちに寄り添った作品を作ることだけ」とは言っていたのだが。
しかし、そういう立場って、実はすごく危ないのではないかと思った私。「安全だ」と言いつのり、福島被災者の早期帰還を推し進める政府のプロパガンダに利用される可能性もあるだろう。パネリストの中にいたハンブルク大学の日本学の教授が、「今の日本がこの5年でどれほどひどいことになっているか。どんどん右寄りになり、政府が一つずつ巧妙に、危険な法律を通し、国家主義的な体制になりつつある。特にメディアはかなりの部分政府にコントロールされている。ドイツ人には理解しがたい原発再稼動は、このようなコンテクストの中で理解されなければならない」とまとめてくれたので、ああ、やっとまともな話が出てきたと思った。よくあることだが、そのパネルディスカッション自体は、日本びいきといえば聞こえはよいが、相変わらずのエキゾティシズムだらけで、レベルが低かったのだ。しかし会場は、多くの人がこの惨状は初めて聞くという感じで、急に雰囲気が変わった。
そして、ちょうどその女性教授が日本の政治に警鐘を鳴らしたところで、質疑応答の時間。待ってました!と私は質問した。こんなにメディア統制がなされている中、平田氏のような立場で演劇が作られると、結果的に政府の片棒を担ぐことになるのでは、平田さんは、たとえば、そうならないためにどのようなことに気を配っておられるのですか、と。彼の答えはこうだった。
<芸術が時の政治のプロパガンダになるという危険性は、常に芸術家は考えていなければいけない。ボクもそうです。原発に反対するという作品を作るのは簡単です。でも、それだとごく少数の人にしかメッセージが届かない。
私はできるだけたくさんの人に「考えてもらう」ことが大切だと思っています。その考えるもとを提供するのが私の作品なのです。それがもしプロパガンダに利用されたら、それは問題ですが、逆に、プロパガンダにもならないような作品だと、きっとつまらないでしょう。>
ぎりぎりの答えだと思った。ただ、日本の政治や社会がこれだけ権力の支配を受けている状況で、「考える」作品が、果たして作者の思い通りに受け取ってもらえるかどうか、平田氏の「逆に、プロパガンダにもならないような作品だときっとつまらないのでしょう」という言葉、これこそが芸術家の意識の中で、実に危うい部分なのだと思わざるを得ない。表現者には、最終的には多くの人に認められたいという欲求がある。ナチスの時代の芸術のあり方などを考えると、ドイツに暮らす私の目には、かなりナイーブなのではないかと思えた。
5年の歳月は、フクシマとどう対峙するかを真剣に考えるには、まだ十分な長さとは言えないのかもしれない。それは芸術の立場からだけではない。私たちが、とりわけ教育に携わる者として、フクシマをどのように「教育の現場」に取り込むべきか、これは本当に今後考えていかなければならないテーマだろう。一つ、このことに関して、先日、これまたご縁があって当地でお会いした江戸学の専門家である、田中優子さんにうかがった心に残る言葉を引用してこの稿を終わりたい。
<現在起きている問題の原因は何かということをよく問われます。その原因として、江戸時代がよくあげられます。結局、現在の問題は、江戸時代のせいにされてしまうのです。しかし、問題は決してそんな単純な因果論で起きるものではありません。また、将来はどうなるのかという予想もよく聞かれます。そんなことに答えるのは、私の仕事ではない。私は、現在の状況をできるだけ複層的に捉えることに努力しています。社会のさまざまな断面を詳しく観察して、それらを再構成するときに、私たちの取るべき行動が見えてくるのです。>
2015年8月
「Ron」
Ronは我が家の名犬でした。送って初めて見えてくる、Ronをめぐる人とのつながり。ペットは、間違いなく、家族の一員ですね。
Ronが死んだ。公文の夏休みが始まる直前の7月、暑い土曜日だった。Ronは我が家の名犬だった。いや、他人様にはうちの愚犬と称してはいたけれど、本当のところは、ドイツ語も日本語も分るバイリンガル犬だった。それに、状況がよく読めて、ここはすり寄っていい場面か、それとも迷惑になるか、ちゃんとわきまえていて、そのけじめがつけられる賢い犬だった。平和愛好主義者で、たまにウサギやネズミを追いかけるが、一度たりとも捕まえたことはなかった。いや、捕まえられなかったというのが正解だろう。雷や大雨を怖がり、外で雷鳴がとどろき渡ると、大慌てで机の下にもぐりこむ。
以前の教室便りにも書いたように、我が家に夫や息子たちがいた時代、私たちは折々犬を飼っていた。が、犬の世話は、私に回ってくることがない役割だった。私はせいぜい頭をなでてやる程度で、犬とはまったく関わりなく生活していたものである。ところが、息子たちが一人、二人と家を去り、最後に夫までが日本に移住してしまった後、うちにはドーベルマンが一匹残されていた。ただでさえ慣れぬ独り暮らしなのに、これが超問題犬で、この犬と関係性ができていなかった私は、悪戦苦闘の末、ついに飼育を諦めた。そこで、この犬を人に譲り、代わりにうちにやってきたのがRonだったのである。
つまりRonは、私にとっては生まれて初めてまったくたった一人で最初から最後まで責任を持って、その存在すべてを引き受けた犬だった。いや、Ronの目から見れば、それは逆。ドイツ語にbegleiten(共伴する)という言葉がある。私は、この言葉が好きでよく使うが、Ronは私の独り暮らしをよくbegleitenしてくれた。犬種はBerner Sennenhund(バーニーズ)のオス。ドイツ国内飼育犬ランキングを見ると、たとえば1位はジャーマン・シェパードだが、第10位はこの犬だ。わりとどこでも見かける犬種である。この犬に決めた理由は、あまりにドーベルマンがむずかしかったので、初心者の飼い主でもラクに飼えるというのに惹かれたから。頭がよく、人なつこく、家庭犬として最適というのがウリだった。
といっても、後日インターネットで検索すると、「最初のやんちゃな時期を過ぎると落ち着いてくる」と書いてあった。その言葉通り、最初の一年くらいは、幾度となく、我が家から脱走して、近所の人たちに保護されていた。しかも、賢いだけあって、我が家の柵の下にトンネルを掘り、それを使って脱出するという、まるで南米の刑務所ドラマのようなこともやっていたのである。私も対策を講じ、首輪に私のケイタイ番号を記した名札をつけて、Ronが保護された先の人から私にすぐ電話をしてもらうようなシステムを作り上げた。これで少なくとも探す手間は省けた。
そして何より人間が大好きという性格。これはふだん、森の中の一軒家である我が家で暮らし、私以外の人間にほとんど接していないことによるのだろう。とにかく誰にでも尻尾をふって飛んでいく。これじゃあ、まったく番犬の役目を果たさないと思われるだろうが、そこはそれ、ほえ声だけは大型犬だけあって迫力満点なのだ。ドアの外からあの声を聞くだけで、泥棒はきっと震え上がるに違いない。ただし、いったんドアが開いたら、泥棒にもすり寄っていくこと必至だったが。
そのRonの様子が5月ごろから少しおかしくなった。いつもはエサをやると2、3分のうちにあっという間に平らげるのに、あまりエサを食べようとしない。老犬になったからなのかな。実はこのBerner Sennenhundは、家庭犬として最適なのだが、唯一欠点があって、それは寿命が短いことだった。大型犬の中でもそれは際立っていて、平均8年とたいていのインターネット情報には書いてあった。その時点でRonはすでに8歳半だった。ゾウだったか、動物は自分の死を悟ると、食べ物を断つというではないか。私はRonがそろそろ死ぬのではないかと、ひそかに怖れていた。ただ、知り合いで、この犬種ですでに12年の犬を飼っているという話も聞いたし、もしかしたらまだ大丈夫かもと楽観する一方で、少しでも長生きしてくれと祈るような日々が続いた。
ちょうどその頃、近くに発情期のメスがいるらしくて、オンオン遠吠えするようになった。発情期で食欲が落ちているのかと解釈した。獣医さんに相談すると、やはり発情しているせいではないかという診断、念のため、血液検査その他を行なってもらったが、全部大丈夫という。それでもどんどんエサを食べなくなって、日に日に弱っていくのが分り、これは何かあると疑った。しつこく獣医さんに訴えたところ、超音波検査をした結果、ホルモン過多が原因なので、去勢手術をするように言われた。何かしっくりしないものを感じたが、エサを受け付けなくなっていたこともあり、他に選択肢がなさそうだったので手術に同意した。思えば本当にRonには悪いことをした。私が一番近くにいて、分ってやるべきだったのに。
結局、手術後、あまり体力が回復していなかった状態のある朝、エサをやろうとしたとき、突然倒れ、痙攣を始めた。ああ、もう死ぬんだと私は思った。かけ寄ってさすり、声をかけているうちに静かになった。それでもまだ生きている。私には、いつも公文やその他で家にいないとき、Ronを預かってもらっている老夫婦がいて、彼らを心から頼りにしていた。すぐ彼らに助けを求めた。炎天下、もう動けなくなっているRonを一緒に救急病院に連れていってくれた。レントゲンの結果、肺の腫瘍が発見され、その場で安楽死の選択を迫られた。かかりつけ医師の誤診だったのだ。本当に辛い思いで、自分の手の中でRonを送った。今こう書いていてもまだ涙が出る。
それでも次の教室便りには、Ronのことを書こうと、そのとき決めた。賢い犬だっただけに、私のために時を選んで逝ってくれたRon。仕事開始の月曜日までに、少し時間が残されていた。昔、佐世保で同級生の少女に自分の娘を殺された父親の新聞記者が、そのときの気持ちを「悲しみがスクラム組んでやってくる」と書いていたことを思い出す。当時、実に的を射た表現だと思ったが、人間は本当にそういう時があるのだと自分で実感した。ただの悲しみではなく、圧倒的な暴力で自分を打ちのめそうと迫ってくるような。思えば、自分の親を亡くしたときよりも喪失感が深い。それが、一緒に暮らしていたことの意味なのだろう。
家族をはじめ、ごく親しい友人だけに、Ronの死を伝えた。皆がそれぞれの方法で、一生懸命慰めてくれた。何度PCの前で泣いただろう。私にかけてくれるそれぞれの言葉が、いかにもそれぞれで、ただ有難い。そこに、自分とその人とのつながりが反映されている。自分がどん底にあるときに、こうして人は自分のことを支えてくれるのだと知ることは、大きな恵みだった。Ronの生と死を通して、あらためて、自分とその人とのつながりが浮かび上がってくる。その新しく見えてきた風景も含めて、Ronがどれほど自分の人生を豊かにしてくれたことかと思う。失われても失われない。この一続きの小さな出来事が、無限に連なっていく。たとえば、世の中にあるたくさんの不正なこと、それに声を上げる、行動する。私の行為が今すぐに何かを変えることは出来なくても、連なっていくその先で、いつか何かが変わる。それを信じて、日常を生きること。私たちの生きている意味というのは、そういうところにあるのだと思った夏だった。